詩集『追伸』から 


詩集『追伸』は1988年9月5日、青磁社から発行された
著者40歳の時の作品集です。当初、夢の詩ばかりで構
成しようと思ったくらいで、「夢」に関する詩が多いのが
特徴です。跋として吉野弘さんが寄せてくれた「上手さん
についての覚え書き」は聖書に取材した私の詩と、夢の
詩についての関連について分析した内容となっています。

 



このページの目次

埋められる夢
電話
二人連れのif
虹と地下鉄
夢の波打ちぎわ
              

 カバー装画 百瀬邦孝



 埋められる夢

私の病名が夢であることは
うすうす気付いてはいるのだ
まわりの者たちが急にやさしくなった
もう長くはもたないのだろう
夢の転移はおそろしくはやい

私たちは一度夢をみたら
まもなく死んでしまうが
とおい昔には
人々は毎朝
夢を体からぬぐいとっては
捨てたという
すばらしい話ではないか
西暦が使われていた時代にさえ
人間は夢に耐えることができるほど
強靱だったというのだ

しかしそんな言い伝えが何の役に立つというのか
私は古代人ではないし
死はまもなく訪れる

夢をみた体は焼きはらわれ
人に知られずに
四つ辻に埋められるならわしだ
人々がその上を踏み固め
夢がいくらあがいても地上に這い出して来れないように
それと知らぬ者たちのさりげない往き来こそ
地下の夢にのしかかる永遠の重さにふさわしい
それをやさしい願いと
呼んでならぬ理由がどこにあるだろうか

妻や子どもたちの軽い足どりが
私の上を通りすぎてゆくとき
私はきっと呟くにちがいない

さようなら
私は夢を見た者だ
わたしは 夢をみた 体だ
 
 

 電話

きみに電話をかけていると 冬が来た
言葉はいつも遅れて役に立たないので
いつものくせでポケットに入れてしまう
ぼくのポケットはだからいつも重く
歩くと夢のようにいい音を響かせる

きみの電話が切れると全くの冬になった
夜をとぼとぼ歩くぼくは
寒い時のくせでポケットについ手を入れる
気付いたときにはもう遅い
ガラスのように夢がポケットの中でこわれ
ぼくの手は血だらけだ
言えなかった言葉は
やさしくあたためてやらなくてはいけない
それなのにぼくはいつもこわしてしまうのだ

ぼくの手は冷たくなっていくので
そこからぼくも冬になっていくみたいだ
粉々になったかけらを てのひらにみつめていると
それは街灯にきらめいてぼくに笑いかける
わかったよ、とぼくは口に出していう
おまえはいつまでたっても電話が嫌いだし
ぼくはあわてものでいつも何かをこわしてばかりいる
頑丈なのは寂しがり屋のポケットだけさ
 

 二人連れのif


     軽いめまいを感じて眼をこらすと
    i f という単語の多い論文だ

軽いめまいを感じて目をこらすと
ぼんやりした視界の中で
 ifがさびしい二人づれに見えてくる
頭をたれてさきを歩いていく男と
うしろからついていく僅かに背の低い女
男は何かを待ち受けるように大きく手をひろげたまま
満たされないジェスチャーをかたどり
女は男の弓形に曲がった背中だけをみつめて
ひっそりと歩きつづける

はりがねのように痩せたif は
長い影をひいて遠ざかる
ときどきかすかに伝わってくる金属的な響きは
彼らがさびしく抱き合う音だ
夢のほころびのなかに住みついたifたちは
忘れかけた頃
私たちの心の中を歩きまわるだろう
年老いた悔恨につきそう杖のように

if が失われるのは
その片方が倒れたときだ
深い穴の底に一本の針金が置かれ
土がかけられる
残されるのは
知恵の輪の片われのように
夢見ることもないアルファベットの一文字--

    ふとわれに帰る。「エアロゾルバルブの孔径と吸入毒性」と
    題する技術論文の最終行を訳出し、原稿用紙に書き込むと
    ころだ。ifは英文の奥深くに戻っていき他の言葉と区別がつ
    かない。
 
 

虹と地下鉄

地下鉄の地図って
とてもきれい
たくさんの色をつぎつぎと乗りかえているうちに
迷子になってしまいそう
虹からはぐれた色の帯が
まき散らされたみたいに地中に埋まっている

虹は とうの昔にこわれて
今は眠っているの
都会の胸の底に

整理された机の上が
アスファルトの街だとしたら
地下鉄はとても長いひき出しのようなもの
だから 会社のひける夕暮れどきには
乱暴な手つきでしまわれるように
電車に乗りこんでいる自分に気がつくの
かすかな揺れが私を疲れさせる
それはきっと
街のにぎわいの下をゆくからね
地下鉄の窓には景色がないのに
みんな暗い外の方を向いているのは
目をそむけあったまま運ばれていくため
吊革にぶらさがっている人の手にした新聞に
大うつしなっている俳優の微笑が
小きざみにふるえて私たちをからかうわ

どこまでも続く空洞をめぐるのは
数え切れない足音の群れと
手から垂れ下がったカバンの波
それらにこびりついた かすかな地上の匂い

そういえば 爆弾をしかけられたとかで
むりやり降ろされたことがあった
あわてふためいて逃げまどう人々の表情は
けれど 不思議に輝いていた
きっと一瞬誰もが夢見たにちがいないの
危険で美しい虹に閉じこめられて
一緒に閃光になることを

 夢の波打ちぎわ

夢が寄せてはかえす
眠りの波打ちぎわに
今日も流れついているものがある
私がとうに忘れ去ったはずのおまえの
形見のようなものを
なぜ夢は遠くから持ち返ってくるのか

それらのものは
ひろい集めて燃やされるだろう
私の中にたなびく煙は
一日の始まりの合図のように無言で
焼けこげた胸は
はるかな炎をかくまおうとしてうつむいている

夜がくれば夢はふたたび暗い波となって
私を洗いつくすだろう
傷はいやされ潮は満ちる
けれどそれは新しい傷口のために用意された
ひとときの安らぎに過ぎない
この海の底におまえはひそんでいる
朝が訪れるかぎり
私へのさびしい贈り物を絶やさぬために

私は受けとり続けるだろう
はてることのないそれらの形見の品々を

人は言うかもしれない
夢がもたらすものは
みずからの心の影があなたにもたらすものであると
私はその言葉をも受けいれよう
眠りの浅瀬で私が出合うものは
私自身の形見にすぎないかもしれないと
けれどそれは一度 遠い昔
私がすべておまえに与えたものだ
それらの最後のひとつが夢の波打ちぎわに帰り着く日
目覚めはついに訪れることはないだろう
それは白髪の婚礼の朝
その日私とおまえは永遠の眠りで結ばれるだろう
 
 
 

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