詩集『夢の続き』から 


詩集『夢の続き』は2004年12月1日、ジャンクション・ハーベスト
から刊行された
著者56歳の時の作品集です。前作より16年を経
ているので、生死にたいする変化もあったかもしれません。この時
期はまたインターネットの普及した時期でもあり、このホームページ
も1998年に開設され、みなさんとサイバースペースを通じた交流
が始まりました。時々サボりつつも、一応毎月、「今月の詩」を発表
し始めたことも、詩の書き方に影響を与えているようです。皆さんか
ら寄せられた感想によると、死に関わる作品が多いと言われており、
よく見るとそうなのですが、自分では全くそう思ってはいませんでした。
日常的な関心事が自然にそこに結びついているのかもしれません。
まだ、出したばかりなので、自分の中でも位置づけがはっきりしませ
んが、これから皆さんのご意見を聞きながら考えていきたいと思って
いるところです。以下に、比較的好評な作品をアップしておきます。
目次で赤になっている作品が掲載されています。       (04/12/26up)



詩集『夢の続き』
表紙装画 百瀬邦孝


詩集の構成(目次)

1 夢が落ちている場所

   刃の川           
   忘れ物          
   光の弦          
   残像           
   夢の続き        
   光の旅         
   ファインダー      

2 風が吹いて

   庭師           
   風の精          
   春風のゆくえ      
   ガラスの家       
   月明かりの下で    
   シューマンの秋    
   手渡す         
   小舟にて        
   桜の舞う朝       

3 鏡が映し出した風景

   道草           
   錆びるための子守歌 
   無言の外套      
   名付ける        
   竜の朝         
   運動会         
   きまり         
   眠る階段       
   言葉          
   お菓子の夜      
   手作りの壺      
  
   *あとがき       
   
 装幀 百瀬邦孝  

       


刃の川

買い求めた詩集を
すぐ近くの喫茶店で読み終えると
本の上にうっすらほこりがついているのに気づいた
それを拭おうとして
カバーの紙で指を切った
書店の棚に何年か置かれていたのだろう
その汚れを気にした私の心を
しずかにふかく切り裂くかのように

血が滲んできたが
痛くはなかった

人の死を知っていても
過ぎ去るにまかせて日常を生きている
それを静かにゆるしてくれるために
ちいさな傷はつくられたのだったか
いや そうではなく
数年前の遺稿詩集にも真新しさをせがんだ私の心には
まあたらしい死へ近づこうとする
感傷をまとった不遜のようなものが
きっとあったにちがいない
それをかわそうとして
何かが私の手からすり抜けていったのだ

顔には白い布がかけられていて
親しい人がくると
布をとっては泣き またかぶせる
あれがまあたらしい死というものなのだ
さっきまで生きていたというように
布団をかぶっている死
その胸のあたりに刃物が置かれていたのを
いま思い出す
どうしてあれを置くの
訊いた幼い私に母が答えた
あたりをはばかるように小声で
「魔除けだよ
悪いものに連れていかれないように」

あれはまよけではない
生きている私たちをこそ押し返す
とぎすまされてひかる川なのだ

その日おそく
忘れかけた頃になって
指の傷は鈍く痛み始めた


  * 高田敏子詩集『その木について』読後に

忘れ物                

骨壷が電車に置き忘れられるというのが
話題になった時代がある
忘れたふりをして
逃げ去りたかったのか
遺失物の届けも出されなかった

だがその光景は私にやさしい
座席にちょこんと腰掛けた骨箱が明るい日差しの中で
どこまでもどこまでも運ばれていくのだ
生きていたとき
車中で眠り込み、もう起きたくない
このまま帰らぬ人になってもいい
そんな幸せな死を夢見た人がとうとう
その夢を果たしたようだ

もう駅の名前を知ろうときょろきょろしなくていい
もうあなたは、どこで降りなくてもいい
遺族が置き忘れたのではなく
あなたは自分の意志でそこに座っているように思えてくる
うたた寝しながらあなたは
一度も行ったことのない遠くへ行くのだ

地下鉄とか、新幹線ではなく
踏切を通過するときにカンカンと
警報機の音が耳元に聞こえてきては遠ざかる
そんな電車がいいね
気が付けば、車両には乗客もまばらで
誰が置き忘れて行ったのか見ている人もいない
その骨箱が自分で電車に乗り込んできたと言う人が現れても
誰も不思議に思わないほど のどかな風景だ

忘れ物でない死などどこにあるだろう
電車が走っていたからには
時も静かに流れていた
外には風が吹いていただろうし
電車が停車すると、小さな衝撃で
小さな箱はちょっと横にずれたにちがいない

夢の続き

いい夢を見ていて目覚めたら
もう一度目を閉じて
その夢を見にゆく
と妻が言う
明け方が寒いほど
美しい夢に戻れるのだと

うらやましいな
と私は言いつづけ
生まれてきた幼い子どもたちは
うそだーとはやしたてた

その子どもたちも大人の扉の前に立つようになると
時として真顔で訊くようになった
どうすれば楽しい夢に戻れるの?

一度見た夢には必ず戻っていける
いっしんにその夢の続きを見ようとして
山の細い小径を分け入っていくと
必ずたどり着けるのが夢だと
妻は笑っている

たとえばどんな夢?
子どもたちはなおも訊ねる

夢はね、楽しければたのしいほど
思い出せないようになっているの
楽しい夢の続きを見たという幸せな気持ちが
布団のぬくもりのように残っていたら
千の物語を忘れても惜しくはないものよ

妻の寝顔がいま微笑んだ
いい夢を見ているのだろう
でなければ、はぐれた夢にいま追いついて
肩を並べて歩き始めたところだろうか

私がその寝顔にみとれているのを
知ってでもいるかのように
もう一度微笑んで寝返りを打った
その寝返りの向こうに
小さな朝が生まれるところだ

庭師

貧しいみなりをした青年と
気高く洗練された少女が連れだって歩いていた
すれ違う人々はそれを不思議そうに見て
そしてすぐに忘れてしまった

その青年をオスカー・ワイルドは
バラを運ぶ庭師のようだったと描いている

He was like a common gardener walking with a rose.*

私もまた貧しくこの世を生きたが
着ていたものが不似合いだったとは思わない
通りすがりの人の目に
仕事着の庭師と思われたなら
どんなにうれしいことだろう

そういえば、あの庭師は
美しいバラを大事そうに運んでいて
汚れた作業着はあのバラの輝きに捧げられた
やさしさのようだったと
誰かが思い出してくれるといいのだが

あれはどこへ行く道だったのか思い出せない
暁の寒さにわたしは体をふるわせ
花は朝露を宿していっそう美しく微笑んでいた

  
*Oscar Wilde "The Picture of Dorian Gray"

月明かりの下で
           
満月は昨日だった
俺の目には今夜も同じに見える
でもみんなは言う
もう欠けてしまった
満月は去ったのだと
俺は欠けてしまったものを見ていよう

人間に満月は幾度でもやってくる
一度だけ満ちていく月に狂って
夜を鳴き明かす秋の虫とは違うのだ
欠けていくひかりの量だけ死んでゆく
空のしたのちいさな生きものたちよ
俺もかつてその仲間だった

カマキリの雌が
性交している雄の頭を食べている
人間はそれを種族の保存のためだと*
説明して安らかな眠りについた
あした会ういとしい者のために
笑顔は深い眠りの中で
やさしく強くつくられていくのだ、と

だが雌カマキリはその時
食べるのを少しだけ中断して
月を見上げていた
(あした会ういとしい者はもういない)
力強いカマを空に向けて幾度か振ると
月はまたすこし欠けるのだった


 *カマキリは交尾時、雄の脳が本能を抑制するため雌が雄の
  脳を破壊して生殖の成功を手助けするという。


道草                      

道草をくって
いつまでも帰ってこない誰かを
別の誰かが夕暮れのなかで待ち続けている
地球というのは そんなところ

道草をして
帰るところがなかったら
どんなに寂しいだろうと
母親は子どもたちを待っている

道草という言葉は
馬や牛が道端の草をはむ姿から生まれたのだろう
してはならぬこと のはずなのに
どこかやさしい響きがあるのは
動物たちの上に射している光のやわらかさが
混じっているからだ

ふと気づけばすっかり白髪になるまで
長いながい道草をしている私だ
帰り道がわからなくなって
たそがれの野原に立ちつくすと
とつぜん母の声が響きわたる
道草をせずにまっすぐ帰ってくるのよ
50年近く前に聞いたのに
あれから一日もたっていないような気がする

おかあさん、
とうとう日暮れてきました。
あなたへの帰り道はもう永遠に
見つからないでしょう
その時初めてあの言葉の意味を知ったのです
その言葉は禁止ではなく
いざないであったことを
生きていくことは 道草の歩みであることを
 
私はいま
それが約束であったかのように
見知らぬ草原で馬となり
暮れて行く空を遠く見つめている

こんどは私が仔馬たちに語りかける番だ
道端の草はおいしいけれど
道草をせずに帰ってきなさい
帰ってくる道を失ったときにも
待ち続けられるあいだは待っていよう
私の空がたそがれるまでは

地球というのは そんなところ

*二〇〇三年三月二〇日、米国が国連の意志を無視してイラクに戦争を宣言した日に。

名付ける
          
人間は何にでも名前を付けるのが好きだ
新しい骨が発掘されたからといっては
見知らぬ時代の恐竜にさえ名前をつけて
博物館に展示する
けもの はうもの 空をとぶ鳥
世界は人間が名付けたものたちで満たされている
だから今度のガルフ・ウォー=湾岸戦争というのも
誰か名付け親がいるのだろう

晴れ着のように軍服を着せられて米兵たちは
ガルフへと送り出されていった
その母や妻たちがテレビ画面に映し出されている
「今日は息子の誕生日でした」
そう言って言葉をとぎらせた母親がいた
生まれてきたことの喜びと祝福に満ちたその日
彼はいつ死ぬかわからぬ戦場にいるのだ
兵士たちを運ぶトラックは
それぞれの誕生日をぎっしり積み込んで
砂漠に砂煙をたてて走っていく

人間は何にでも名前をつけるのが好きだ
けれど一番好きなのは わが子に名前をつけること
もっと好きなのは その名を呼ぶこと
もっともっと好きなのは
呼びかけられた相手がこちらを振り向いてくれること
けれどあるとき
こたえる声が突然とぎれる
国旗に包まれた柩と
十数人の兵士の敬礼の無言だけが帰ってくる
国旗は幾度もたんねんに小さくたたまれて
母親の手に渡されるのだった 

その場面をテレビで見ている僕を
とがめるものは何か
戦争のない国で
人の不幸に涙さえ浮かべている自分に
海のむこうからあざけりの声が聞こえてくる
感傷的な日本人め
いくじなしの国の いくじのない連中には
涙なんかあり余っているだろうさ、と
正義のために死んだこの若い兵士の顔を見ろ
まだあどけなさを残したこの表情を
たたまれた祖国の旗をにぎりしめてこらえている
この母親の雄々しさを、と
死者の山に足をかけて
演説をする人たちの声は遠くまで響きわたる

いくじなしの国民…
いくじなしのあり余る涙…
それは私たちのほこりだ
いくじなしの国民は
いくじなしの子どもたちを育てるだろう
そしていくじなしの国
戦争を永久に放棄する国が
世界中に広がることを祈るだろう

熱にうかされた戦争世界のくらい海の中で
小さな孤島が投げかけるかすかなあかりこそ
私たちの憲法ではなかったか

人間は何にでも名前をつけるのが好きだ
新しい戦争には新しい戦争の名前を
著しい数の死者をかくすためには
国家の称号で飾った一人の英雄の名前を
人間の歴史は
そんなガラクタをならべたてた博物館に終わるのか
そのうす暗い廊下のかたすみに
「短命に終わった」と説明文が付き
「理想を夢見たが非現実的だった」とうち捨てられた
「日本国憲法」の条文が目立たずに陳列される日々が
本当に訪れてもよいのか
かたわらには寂しい目をした恐竜が
静かに立ち続けているだろう
滅びた理由をまだ納得できず、遠くを見つめたまま

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